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瑞応寺ブログ

沿革

瑞応寺の沿革

瑞応寺を語るには新原の起源と深い関わりがあります。

元亀三年(1572年)十二月には有名な三方原合戦が起こり三方原台地は武田軍と徳川軍との激戦地となる。家康公は敗戦し浜松城へ退散す。合戦に勝利を得た武田信玄公は、浜松の押さえとして澗泉寺(かんせんじ)に本陣を置き新原弥左右衛門尉村一(しんばらやざうえもんのじようむらかず)を将となして家臣郎党を配陣させた。

天正元年(1573年)一月に武田軍は三河へ駒を進めたが(長篠合戦)大敗して甲斐へ帰城した。
残留された新原弥左右衛門尉村一は、家康と相争うことは不利と悟り家臣郎党と共に天正三年(1575年)家康公に和睦を申し入れ忠誠を誓う。家康公はこれを賞し当地を新原家に与え郡奉行と山林奉行を命じた。
当地を拝領した新原家は数年掛けてこれを成し得る。新原弥左右衛門尉村一の姓をとって麁玉郡新原村とする。

天正八年(1580年)新原の起源となる。

文禄二年(1593年)村造りが終わると一族の香華所(こうげしよ)(寺)と祖霊神を祀る処が必要となり、居を構えた本村に諏訪山瑞応寺を建立し丑寅(東北)の地に武田家の守護神である南無法性諏訪大明神(なむほつしようすわだいみようじん)を建立した。

瑞応寺を建立するにあたり当地にあった澗泉寺を廃寺とし、瑞応寺に統合して開山巌(がん)岫(しゆう)和尚を迎える。澗泉寺の住職は瑞応寺の客僧となり、尚かつ善願寺(ぜんがんじ)の開基となる。
善願寺は瑞応寺の末寺となる。

寛文十年(1670年)八月、善願寺開基遷化(せんげ)。
翌年一月諏訪山瑞応寺を澗泉山瑞応寺と山号を改め現在に至っている。
善願寺は三代続くが後代が無いため瑞応寺に統合する。

元禄十四年(1701年)山門建立 三世澤峯(たくほう)和尚代

六世長沙(ちようさ)和尚(1710~1781年)白隠門下で大悟す。伽藍整い禅堂を有する。
長沙和尚は本堂修復を発願。

安政十年(1781年)本堂修復完成 観音堂建立 七世恭道(きようどう)和尚代

文政六年(1823年)地蔵堂建立 九世桂堂(けいどう)和尚代

昭和十年(1935年)六月 山門修築 十四世眞洲(しんしゆう)和尚代

昭和十三年春 位牌堂建立 十四世眞洲和尚代

昭和五十一年一月 書院庫裡大改築落慶 十五世浩道(こうどう)和尚代

平成元年六月 位牌堂落慶 十五世浩道和尚代

平成九年五月二十九日 本堂位牌堂不審火にて焼失。

平成十八年十月九日 諸堂地鎮祭

平成十九年五月二十日 本堂上棟式

平成二十年二月二十三日 位牌堂上棟式

平成二十年五月二十日 研修室上棟式

平成二十年九月二十七日 山門上棟式

平成二十一年六月十四日 本堂 山門 位牌堂 研修室落慶法要

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